八事山(八事山興正寺、戦用の出丸門など)

尾張徳川家の祈願所

八事山興正寺

境内には江戸時代に建てられた建造物がいくつかあり、木造五重塔は国の重要文化財に指定されています。 学問や修行の場として、今でも人々の信仰を集める八事山についてご紹介します。

【八事山興正寺】

興正寺の始まりは1686年、高野山からこの地に天瑞和尚という僧侶がやってきて草庵を結んだことによります。 2年後の1688年には尾張二代藩主光友によって寺院建立を許可されました。 この興正寺は高野山真言宗別格本山で尾張高野とも呼ばれており、江戸時代から参詣者が多くいたそうです。 本堂は阿弥陀堂として1750年に建てられたもので、能満堂は1717年に尾張六代藩主継友の寄進によって建てられたものです。

【戦用の出丸門】

興正寺の東山門はもともと名古屋城にあった戦用の出丸門です。 戦用のため弓や鉄砲が撃てるように両側が格子になっており、この東山門からの登り道はS字の坂になっています。 この坂は意図的に作られており、敵が攻めてきた時に相手が一気に攻め上がれないようにこのような形にしてあるのです。 また興正寺は名古屋城下西端の砦として、軍事的な意味合いもあったそうです。

【女人門】

八事山は西山と東山に分かれており、昔から西山は誰でも自由にお参りすることができたのですが、修行の場であった東山は女人禁制とされていました。 西山と東山を分ける女人門からは女性は入山することを禁じられていましたが、明治に入ると女人禁制は廃止され、現在ではどちらも自由にお参りすることができます。 1697年に作られ七世真隆和尚の時代に再建された総門をくぐると、左手には七観音が右手には六地蔵があり、すぐに中門が見えてきます。 この中門が西山と東山の間にあり女人門と呼ばれていたもので、女人禁制廃止後には中門としてここに移されました。

【五重の塔】

この五重の塔は1808年、総門を再建した時に建立されたものです。 高さ30メートルの小規模な塔で、塔身が細長く相輪が短い点では江戸時代後期の塔の特徴をよく表しているでしょう。 尾張藩との関係が深かったことから、塔の扉には葵の紋が刻まれています。 東海地方では唯一の木造五重塔で、国の重要文化財にも指定されています。